三島由紀夫 エッセイ

   一般的に浅薄さはすぐ廃れ、軽佻浮薄はすぐ萎む。流行と言うものは薄っぺらだからこそ普及し、薄っぺらだからこそすぐ消えてしまう。それは確かにそうだ。しかし一度廃れてしまった後に思い出の中に美しく残るのはむしろ浅薄な事物で有ります。鹿鳴館の風俗は当時の浅薄な外交文化の猿真似に過ぎませんでしたが、今日では明治時代の重厚なる征韓論なんかより浅薄な鹿鳴館風俗の方が美しい過去として残っている。しゃっちょこばったものや重厚なものは、一見流行ほどはやり廃りが無いように見えるが本当の所は流行より短命なのかもしれない。浅薄な流行は一度素早く死んだ後に今度は別の姿で蘇る。軽佻浮薄というものには、何か不思議な猫のような生命力があるのです。流行の生命の秘密は正にここに潜むとも言えましょう。

   流行は無邪気な程良く、「考えない」流行程本当の流行なのです。白痴的、痴呆的流行程、後になって美しい色彩と成って残るのである。歌舞伎の助六の美しい舞台を見た人はあれが当時の最もモダンな風俗や流行り言葉の集大成であったことを不思議に思うかも知れません。

   似合っても似合わなくても流行は従うべきなのであります。それはあなたの最上の隠れ蓑であって、思想をよく隠すのは流行の衣装だけだと言っても宜しい。

   三島由紀夫 エッセイ
   人生読本シリーズ「ダンディズム」河出書房出版 昭和五五年


   これは、私が高校生のとき雑誌からノートに手で写したものを、更にまた大学のときノートの98といわれる古いパソコンに親に送る手紙の原稿の一部としてタイプし直し、更にその手紙原稿を紙出力したものが残っていて、それを今もう一度入力したものである。古いパソコンのデータはどうなったか分からない。昨年から自分の書いた文章や日記のようなもの悉く捨てようと頑張っていた最中に出てきたこの紙は、「なぜでも捨てられぬ」というファイルに保管されていた。印字もあちこち薄くなりそのうち読めなくなるだろう。今のうちにどこかに写しておかないと、せっかくメモしたのになくなってしまう。そう思っていたのであった。
   さてなぜこんなにしつこく写し続けるかというと、やはり私にとってはこの三島由紀夫のエッセイが大変大切であったからであるといえる。私は大学のとき日本服飾美学研究室というところに行った。従ってもしかしたら、生物学や工学を学んだ人よりは服飾というものを体系的に学ばされているかも知れない。そしてその間中この文章は私の頭の中に常にあり、どんな流行論にも負けず繰り返し思い起こされていた。そもそも私が「服飾」についてあれこれ考えたことにも極めて近い内容であり、三島由紀夫が非常に短く的確にまとめてくれている。まるで一つの定理のように、この文章はいつでも有効であった。