トップ寝言>『漫蔵』編纂の提案

 仏教経典を片っ端から集めた大叢書を、「大蔵経」と謂う。注釈・研究などで仏典を引用する場合、大抵はここに収録されたものを参照すれば良いのだから、便利である。近年ではテキストデータベース化されていて、「CBETA」「SAT」といったものがネット上に公開され、無料で本文検索ができる(宗教の資金力は凄い)。
 道教経典にも、「道蔵」というものがある。これもデータベース化されているが、残念ながら無料で使用できるものは無い(尤も、そのうち海賊版が出回ることであろう)。
 最近では、儒教関係の典籍を収録する「儒蔵」を編纂するプロジェクトが中国で進められているらしく、既に何冊か刊行されている。いったい、どのくらい巨大な叢書になるのかはよく分からないが、これが完成すれば「儒・仏・道」三教の叢書が揃うわけである。
 「○教文献といえばとりあえず○蔵に収録されている」というのは、かなり心強い。そして、電子検索ができれば更に良い。こういった大叢書・及びそのデータベースの存在は、資料捜索・引用参照の手間を劇的に減らしてくれるのだ。

 古代中国の文章には、儒・仏・道の経典に限らず、様々な典籍からの引用が多数含まれている。従って、このような文章を読解する際には、まずそこに引用されたその語句が、原典に於いてどのような意味・文脈で使われていたものかを確認する必要がある。そうしなければ、文章全体の内容を読み違える危険が伴うし、作者が引用によって展開する論理・機知というものを理解することはできない。
 日本文学に於いても事情は同様で、例えば、白居易の詩を知らなければ『枕草子』の「香炉峰の雪は」というやりとりに付いて行くことはできない。その他、川柳や黄表紙にも、様々な典籍からの引用が見られ、その洒落を理解するのにも、やはり原典を知らなければならない。
 このように、それぞれの時代・地域に於いて、誰もが読んでいるものと見なされる文献があり、多くの文化的活動がその基礎的文献の上で行われる。皆が知っているという前提の下で使用されるから、引用・パロディに当たって特に説明しないこともある。つまり、我々が、過去の文化や他地域の文化を理解するためには、このような基礎的文献を把握する必要があるのだ。
 では、現在の日本文化に於いて、このような基礎的文献はあるのだろうか。私はあると思う。例えば、『吾輩は猫である』や『人間失格』、『雪国』といったものは、少なくとも冒頭部分は、知っていることが常識とされる。また、「チューリップ」や「ぞうさん」といった歌も、「文献」と呼ぶべきかという問題はさておき、ほとんどの人間に共有されている基礎知識であることに変わりはない。
 しかし、もしかすると小説や歌詞以上に、新しい基礎的文献を担っているのが、マンガやアニメではないだろうか。マンガ・アニメ自体が過去の名作中のセリフ・設定をパロディすることもあるし、それ以上に、「2ちゃんねる」を代表とするインターネット文化の中では、かなり日常的に、マンガ・アニメ作品の内容を用いたやり取りがなされている。いずれもその出典が明示されることは少ないが、それでもかなりの読者・閲覧者たちが、典故を踏まえた上でその意味を理解することができる。これは、そこに使用されたマンガ・アニメの作品が、彼らにとっての基礎的文献だからである。
 ただ、ある時期に於いて基礎的文献であっても、後世では基礎的文献ではなくなるかもしれない。つまり、現在、「オッス、オラ○○○」「人がゴミのようだ」といった文句が多用されているが、後に『ドラゴンボール』や『ラピュタ』を知る者が少なくなった時に、こういった言葉を用いた作品を理解するのはかなり難しい。つまり、後世の研究者が20世紀末から21世紀初頭の文化を解明しようとした際に、マンガやアニメからのパロディが、その障壁となる可能性があるのだ。

 そこで私は、以下のように提案したい。
 国家事業として、マンガを集めた大叢書、「漫蔵」を編纂すべきである。そして、併せて、電子テキストデータベースの作成も行うべきである。 これは、もちろん、『永楽大典』を遥かに超える世界最大の叢書になる。財政的負担は重いが、未来への大いなる遺産となるだろう。
 叢書編纂にあたっては、まず、収録するマンガを選別しなければならない。全てを収録するのは不可能である。 そこで、選別のために、数十人から数百人の「ヲタ」と呼ばれる人々を雇用し、それぞれの漫画の重要性を検討させる。判断基準は、その漫画がどれだけメジャーであるかということ、及び、元ネタとしてどれだけの影響力を持ったか、である。例えば、「お前は既に死んでいる」「ひでぶ」「あべし」等々の言葉を生んだ『北斗の拳』は最重要ランクに位置づける。
 電子テキストデータベースについては、データの重さに加えて著作権の問題もあるだろうから、絵は載せず、セリフやナレーション等の言葉のみをデータベース化する。そして、絵が載らない代わりに、それが何巻の何ページかは明記する。これで十分用は足りる。例えば、「ひでぶ」で検索すると、『北斗の拳』の第○巻第×頁、第△巻第▽頁、第□巻第◇頁のセリフがヒットする。そこで利用者はそれぞれの前後の文脈を読んで、自分の探しているものが第△巻第▽頁であると判断する。その上で、叢書を閲覧し、実際の漫画の該当箇所を読んで、確認を行う。
 これは、我々の文化を解読するための手懸かりを整理して後人に残すということであり、学術的に非常に有益な事業であると思う。まさに国家百年の大計。また、目下の雇用対策にもなる。かつて『四庫全書』の編纂は、清朝に不満を抱く儒学者たちのガス抜きとなったが、「漫蔵」編纂にもそれと同様の効果が期待できよう。
 ただ、日本政府にこれをできるかというのが問題である。 「儒蔵」編纂を着々と進める中国政府と比べて、日本政府は全く体力がない。こういうところでリーダーシップを発揮するのは国家の役割なのだが、どうも最近はいけない。むしろ、中国政府にやってもらった方が早いかもしれない。著作権も無視して強引に進めてくれそうだ。
(2010.9.24)

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